ARCS TECHNICAL REPORT No.3

“林(りん)”からのランドスケープ

2001,緑の読本57,112-118,公害対策技術同友会,掲載)


■「農」と歩む景観                 

■防風林

■北海道の防風林の成立過程

■十勝平野の防風林

■防風林のこれから


■「農」と歩む景観

 どこまでも続くまっすぐな道、広々とした牧草地と乳牛たちの群、さらにこれは幻に近いけれども、風雪に曲がりくねった巨木とすくと伸びたエゾマツ・トドマツが林立する原生林。北海道の景観をステレオタイプ化するとこのような光景が目に浮かんでくるだろうか。北海道を訪れる人の多くは人手の加わることが少ない自然景観に魅せられ、またその広大さを味わっていく。あるときには、明治や大正期の風情を見せる小樽運河や函館元町地区などの歴史的景観も北海道を代表する景観の一つに数えられる。しかし生活と自然環境がつくりだした「農」の景観は、車窓を流れるにまかせ多くは見過ごされてきた。近年でこそ写真家前田真三によって「美瑛の丘」は北海道らしい景観の一つに数え上げられるようになってはいるが、「農」がつくった北海道らしい景観は必ずしも多くの人の目を集めるまでには至っていない。

 このような「農」がつくった景観の一つに、防風林の景がある。後述するように、北海道では風食を伴うほどの局地風が吹く地域が多く、「農」は防風林とともに歩んできたといっても過言ではなく、これもまた北海道らしい景観の一つとなっていると思われる。ここでは北海道十勝地方の防風林を生活と自然環境がつくった文化景観としてとらえ、その成立過程と現状を概観してこれからの在り方を考えてみたい。

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■防風林

 防風林とは読んで字のごとく風を防ぐ林である。北海道では開拓当初に原生林をそのまま残し防風林としたところもあるが、多くの場合農地などの保全対象を守るために人の手で植えられたものである。

 気候現象が、ある地域的な広がりを持って、しかも目に見える姿で地表、植物、人間の生活などにその影響の痕跡を残したものを気候景観という(青山ほか,2000)。防風林は人間生活と切り離すことができないという性質から、気候現象がもたらした文化景観であるということもできる。屋敷林や防雪林・防霧林も林によって風の影響を緩和するという意味において広義の防風林に含めることができるし、極めて人間生活との関連が深い文化景観である。

  海岸防風林は全国の海岸に広がっているが、多くは17世紀(江戸時代)以降につくられたものである(村井,1997)。新田開発が進み、農地は沖積平野から次第に海岸沿いの砂丘後背地へと広げられた。このときに飛砂や潮風の被害から農作物を、さらには農地そのものを守るためにクロマツなどが植えられてきた(写真-2)。

 白砂青松の世界を形づくっている景観はこの頃からの文化遺産といってもよい。北海道では道南地方の江差町砂坂で昭和初期から造成されたクロマツ林が見事に育っている。ただし北海道のクロマツの植栽限界は長万部〜苫小牧付近までであり、その以北ではカシワを主体に植栽されているが、必ずしも十分な成果はあがっていない。青森県津軽地方の屏風山では18世紀以降現在も営々と海岸防風林づくりが続けられていること(牧野,1988)などを考え合わせると軽々しく結論を出せないものなのかもしれない。

写真-1 海岸林の景(山形県鶴岡市)

  内陸部には耕地防風林や屋敷林などある。「だし」や「おろし」と呼ばれる顕著な局地風が吹くような地域に多く見られる。本州では赤城おろし(群馬県)、清川だし(山形県)、六甲おろしなどの名前が知られているし、北海道では手稲おろし、寿都だし風、十勝風など(青山ほか,2000)である。屋敷林は住宅の敷地四方を囲む形ではなく、卓越風の吹いてくる方向につくられる。後述する十勝平野の場合には、日高大雪山系から吹き降りる風に対処するために敷地の北側と西側につくられることが多い。北海道では、開拓時に耕地区画が設定されるときに天然林を残存させる計画をつくり保存林として残したものが耕地防風林の始まりである(小関,1971)。1896(明治29)年5月に議定された「殖民地選定及区画施設規定」第5条に「…、防風林は少なくとも、1800間毎に之に相当する土地を適宜存置すべし」とある。残置幅はおおむね100間とされたようである。その後幾たびかこの規定は改定されたが、この制度が現在の北海道の防風林の骨格を形づくっている。これについては後述する。

写真-2 屋敷林の景(北海道士幌町)

 防雪林も広義には防風林に含まれるだろう。また人間の生活との関連が非常に大きいという意味でも防風林と同様の性格を持つ。防雪林の歴史は比較的新しく、鉄道という交通機関が生まれてからである。1893(明治26)年東北本線建設時に当時の日本鉄道株式会社によってつくられたのが始まりである(仲野,1965)。1985年時点でJR(当時国鉄)の防雪林は3,700箇所、面積13,630ha、防護延長1,660kmとされている(藤岡,1986)。国鉄がJRとなってからは減少しているようである。例えば札幌近郊の、周囲が住宅地となり防雪機能を果たすことが必要でなくなったような場所では順次伐採され住宅地などの転換されている。しかし、都市近郊で連続した樹林帯は少なく、生態的回廊としての役割を担っていると考えられ、市民からはそれを保全していくことを期待されている。なお、日本最初の鉄道防雪林は青森県野辺地に「野辺地防雪原林」として保全され、1960(昭和35)年に鉄道記念物第14号に指定されている(藤岡,1986)。

写真-3 防雪林の景(北海道中川町)

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■北海道の防風林の成立過程

 先に北海道では開拓当初の制度が現在の防風林の骨格をつくってきたと述べた。現在に至るまでの過程をもう少し詳しく述べたい。以下は、小関(1971)による。

 1896(明治29)年に規定が議定され、その翌年には北海道庁令「北海道国有未開地処分法施行規定」がだされ、第11条で「開墾を目的とする貸与地に於いて風防風致又は薪炭用として其地積の十分の一以内を存置することを得」として、防風の目的だけではなく風致林としての機能や燃料供給源としての機能にも着目した取り扱いをしている。その後残置割合が変わっている。1918(大正7)年には「区画測設心得」で、具体的に「防風林は50間以上100間以内の幅を存置すること」と規定している。翌1919(大正8)年には「殖民地選定心得」で防霧林という考え方を取り入れた上、「(3)現に林相をなさざるも将来植樹造林によりて防風若しくは防霧林の設定を必要と認めたもの」として、森林状態をなしていない場合にも将来を考え防風林予定地としてあらかじめ土地利用区分上は防風林に算入していたことは注目に値する。これら防風林は国有未開地の上に設定されたものが多かったが、保安林制度の拡充とともに国有保安林に編入されていく。斜里地方や根釧台地などでは現在までこのような国有防風保安林が残されており、中には原生状態に近いものある(竹田津,2000)という。また伐採が行われすでに二次林となっているところや第二次世界大戦後に一部開墾されたようなところもあるが、骨格は現在も残されており「基幹防風林」と呼ばれている。

写真-4 基幹防風林の景(北海道中札内村)

 北海道には「基幹防風林」のほかに「耕地防風林」と呼ばれるものがある。農地に隣接してカラマツなどを1〜3列植栽している防風林のことである。「耕地防風林」がつくられだしのは1920年代(昭和初期)である。「基幹防風林」は先に述べたように1800間(約3.6km)間隔に設定されている。防風林の減風効果は最大でも樹高の約20倍とされているから、実際には「基幹防風林」の間隔は広すぎそれだけで農耕地に対する保護効果を発揮させようとしても難しい。春早くに播種したり苗を植え付けたりする畑作地帯では、活着しないうちに強風で土壌もろとも苗や種が吹き飛ばされてしまう被害が続出した。このため「基幹防風林」を補完するような小区画の防風林を設置することになったのである。最初は各々の農家が自分で畑に木を植えていたが、1933(昭和8)年になって北海道庁が「耕地防風林造成奨励規定」を定めて造成費の半額を補助するようになってからこのような「耕地防風林」の造成が進んでいった。

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■十勝平野の防風林

 狩勝峠や日勝峠を越えると眼下に広大な十勝平野が広がる。北海道の脊梁山脈の東側に位置する十勝地方は面積が10,830k?、岐阜県とほぼ同じ広さを持つ。地域界の日高山脈や大雪十勝連峰は標高2,000m近い山々が連なるが山岳地域が占める割合は低く、低地・台地・丘陵など比較的平坦な地形がその面積の60%程度を占めている(国土庁土地局,1979 より算出)。そしてその平坦地の多くは畑作地帯である。十勝の野を走ってみると、思いの外この広さを感じない。防風林が視界を遮り景観に区切りをつくっているからではないかと思う。ここかしこに防風林があって、近景は背景と縁が切られ広大さを感じさせなくなっている。防風林は十勝の風物詩と呼ぶべき景観で、十勝の景観を形づくる大きな要素となっている。

写真-5 防風林の景(北海道士幌町)

 先に述べたように十勝平野では十勝風(あるいは日高颪)と呼ばれる局地風が吹く。これは初春に脊梁山脈から吹き下ろす北西風で、最大風速は10m/秒を越える。数年に1回程度の割合で発生して、植え付けを終えたばかりのビートの苗を吹き飛ばしてしまうなどの農業被害を与えている。十勝平野は広くTo-c1と呼ばれる十勝岳から噴出された軽鬆な火山灰に覆われているため、4月・5月の降水量が少なく土壌が乾燥しているときに十勝風が吹くとこのような風害が発生する。近年では1998(平成10)年に風害が発生している。

 十勝平野の防風林も先に述べたような経緯でつくられてきている。「基幹防風林」は開拓以前からの台地での優占林、カシワ林を主としているが、多くは一度伐採されて現在は二次林である。またカラマツに樹種転換が図られたところもある。さらに「基幹防風林」は当初国有保安林であったが、第二次世界大戦後保安林政策の転換(1951年)によって市町村に払い下げられ、現在十勝地方では国有防風保安林は非常に少ない。戦中からこの時期にかけて食料増産のため「基幹防風林」の一部を保安林から解除して農地に転換するというようなことも行われ、設定時に180mの幅があった林分の多くは40mほどの幅に縮小されている。ちなみに戦前と現在の数値を挙げると、戦前の1939(昭和14)年は91ヶ所・約18,340ha(北海道庁拓殖部,1940)、1996(平成8)年には122ヶ所・約7,040ha(北海道林務部,1996)となっている。1983(昭和53)年以降はほぼ7,000ha前後の数値で大きな変動はない。

  一方「耕地防風林」は、1931・32(昭和6・7)年の冷害を契機に広範囲に造成されていった。1933(昭和8)年から10年の間に本格的に植栽されている(紺野,1993)。「耕地防風林」は1960年代には約6,000haほどあった。1960年代は農業の機械化・大型化が大きく進展した時期で、耕地面積の大規模化が図られ、この時期を境に「耕地防風林」は減少していった。1965年の面積に対して、1995年にはその18%にまで減少している(十勝支庁防風林対策連絡協議会,1999、数値は十勝支庁農務部,1995)。1995年時点での面積は1,100ha、延長は約2,500km(北海道十勝支庁防風林対策検討会,1998)である。「耕地防風林」の構成樹種は主にカラマツである。このほかシラカンバやトドマツも植栽されている。

 十勝の防風林のある景は、今から100年ほど前に開拓時の残置林に端を発し、昭和初期からのカラマツ防風林の植栽でほぼ現在の枠組みが決定された。「耕地防風林」の造成からでも70年の歳月が過ぎ、防風林のある景は十勝の原風景と呼ぶべきものとなっている。しかし、この30年間の「耕地防風林」の減少傾向に見られるように、十勝の原風景は危機に瀕している。

 農家にとって「耕地防風林」は、一方ではその防風効果や景観形成上の価値を認めつつも、作業効率の低減や減収が伴うことから、必ずしも両手をあげて歓迎するというような存在とはなっていない。すでに、防風林があることによって耕作地の一部では確かにその影響を受け減収となるが総体的には増収する(斎藤,1996ほか)というデータは折に触れアナウンスされている。しかし減歩と同じような土地利用を目の前にすると感覚的には「耕地防風林」は邪魔者に映る。また農作業中に農業機械の一部を防風林に接触させてしまったような場合の機械の修理費は、軽微な場合でも数十万円かかるという。カラマツ間伐材の1本あたりの値段が大根1本と同じなどといわれるような昨今では、残念ながら防風林を伐採して修理費を捻出しようとしても費用が上乗せになるだけで便益は得られない。このほか、防風林の根が耕作地にまではびこってしまうということがあったり、カラマツの落葉が土壌を酸性化するというような誤解があったりで、農家にとって「耕地防風林」は芳しからざる存在となっている。直接農家の人の話を聞くと、防風林の減少も宜なるかなと思ってしまう。しかし、だからといってこの景観を失っても良いものなのだろうか。

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■防風林のこれから

 これまで述べてきたように、北海道の防風林は「官」と「農」が形づくり発展させてきたものである。防風林のある景も同様である。しかし先に述べたように、「官」と「農」だけの共同作業ではこれを維持していくことは難しい状況になりつつある。その原因の一つには「官」の政策的な矛盾がある。「耕地防風林」は農地の中に造成され、その農作物の生育と密接な関係がありながら、「耕地防風林」を推進しているのは林業政策部門のセクションであり、農業政策的には「耕地防風林」をつくる制度はない。筆者は、本来的に「耕地防風林」政策は農業政策あるいは地域政策の一環として捉えられるべきものと考えている。防風林の有効な配置計画とは耕作地の配置をどうするかということと同義であるからである。さらに「農」の側から維持できない原因を見ると、そこでは費用だけがかさみ便益が生まれないような構造にある。残念ながら防風林の景という地域の景観の価値を農作物の価値に付加することはできない。誰も評価してくれない、つまり有り体に言えば「防風林は一銭にもならない」のである。防風林の景を維持していることを評価するシステムが必要である。

 これまで防風林をどうするか、あるいはどうあるべきかという論議の中に「市民」がコミットする機会はほとんどなかったのではないかと思う。以前帯広市で開催された「防風林保全のためのシンポジウム」に参加したことがあったが、参加者は当事者(農家・農協・林業政策担当者・農業政策担当者・研究者など)であって、いわゆる「市民」は少なかった。これまでのように、直接利害関係のあるもだけを当事者とするという考え方では、地域景観としての防風林の景を継ぐことはできない。近隣に住むものさらには訪れるものも全て当事者としてコミットできるようにしなければならない。そのような場をどのように設定していくかが大きな課題である。また逆に「市民」は地域の景観づくりにどのようにコミットしていくかを考えなければならない時期にさしかかっている。幸い帯広市およびその近郊では「音更川グランドワーク」や「エゾリスの会」といった市民グループが緑づくりや里山づくりの活動を続けている。筆者は、やがて彼らが防風林の景という地域の景観に対してまでコミットしていくだろうと期待している。

 防風林の問題は、十勝という地域の中ではそれなりの問題意識が芽生え、これからどうするかという論議が進められている。防風林の景というものが地域固有のものであり、必ずしも広く他の地域にまでその論議が伝わってはいないと思う。しかしこの問題は、地域の人々が日々の営みの中で形づくってきたその地域の景観をどのような形で次の世代に伝えていくかという視点で見ると、実に普遍的な問題である。拙文は問題提起だけで、解決策まで提案できなかった。これまでランドスケープアーキテクトから防風林の問題にアプローチを試みたという話は寡聞にして聞いたことがない。林(りん)がその姿を現すまで、最低でも20年という時間を要する。そのような時間軸を見据えた中で、ランドスケープアーキテクトは何を考えるのか。問題を投げかけてみたい。

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参考文献

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青山高義・梅本亨(2000) 日本の風系,青山高義・小川肇・岡秀一・梅本亨 編(2000) 日本の気候景観−風と樹 風と集落−,18-22,古今書院

藤岡昭夫(1986) 鉄道林 森林の多目的効果と価値評価,道路と自然,51,46-53,(社)道路緑化保全協会

北海道庁拓殖部(1940),国有林事業成績

北海道林務部(1996),北海道林業統計

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国土庁土地局(1979) 土地分類図

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小関隆祺(1971) 北海道開拓行政における防風防霧林の設定について,林野庁 監,北海道の防風・防霧林,41-57,(財)水利科学研究所

牧野和春(1988) 森林を蘇らせた日本人,209pp,NHKブックス552,日本放送出版協会

村井宏(1997) 治山・砂防緑化技術の沿革と発展の過程,村井宏・堀江保夫 編,新編 治山・砂防緑化技術−荒廃環境の復元と緑の再生−,1-12,ソフトサイエンス社

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