次の進化の担い手は?

クライブ・フィンレイソン

農耕出現以降の歴史がごく短いものであることを改めて考えてみれば、私たち現生人類の生物学的な構造が、それ以前にほぼ完全に出来上がっていたことは疑う余地もないだろう。もちろんその後も進化は続いているのだが、それは「自己家畜化」とでも言うべき方向に進んできたように思える。
 こうした状況を背景に近年高まりつつあるのが、過去一万年間になし遂げられた技術的・文化的偉業が、それまで歩んできた道から人類を逸脱させたという主張だ。数百万年かけてつくりあげられた生態と、わずか数千年間に発達した現代の生活様式のあいだで、ミスマッチが生じてきたというのだ。

 歴史を見れば明らかなように、ちょっとした揺らぎからはじまる環境の急変に対処できなかった集団は絶滅を余儀なくされた。ネアンデルタール人がその最たる例だ。そして今、文化や技術を通じて世界に混乱をもたらした張本人である私たち自身が、変化の速さについていくのが困難だと感じている。

忘れてはならないのは、私たちが今ここにいるのは、生き残りをかけて臨機応変にさまざまな行動をとった周縁部のイノペーターたちのおかげだということだ。その後の私たちは、技術の著しい進展のおかげで、遺伝子の力を借りるよりもずづと迅速に、気候をはじめとする環境の変化に対応できるようになった。私たちは、環境に手を加え、食物を改良し、自らの影響力を徐々に増大させ、ますますたくさんの子孫をもうけた。しばらくのあいだは、それでもうまくいった。世界はまだ広大で、人類の数は取るに足りないものだったからだ。

私たちは成功に酔いしれた。資源が尽きることはないし、何もかもが永遠に続くだろう−そう考え、前進し続けた。しかし人類の進化の歴史においては、繁栄の一万年という期間はあまりに短い。現代に近づき人目が増えるにしたがい、この新しい生活様式が短い時間尺度でのみもちこたえるもので、いつかは崩れ去ることに私たちは気づきつつある。過去を振り返れば、永遠に続くかと思われた文明が音を立てて崩壊していく場面をいくらでも見つけられるが、そのうちのどんな事態でさえも、私たちの目前にせまっている危機には比べられはしないだろう。

 では、すべてが崩壊するときに生き残るのは何者なのか? 歴史が示すように、それは安全地帯に住んでいる者たちではなさそうだ。電気、自動車、インターネットの奴隷となり、テクノロジーという支えがなければ数日間しかもちこたえられない、自己家畜化した私たちではないのである。希望があるのは「偶然」に選ばれた子どもたちだ。次の食事がいつどこで手に入るかもわからず、わずかな食べ物を奪い合う日々を過ごしているに違いない貧しい人々が、生き残りに最も力を発揮する集団になることだろう。経済が破綻し、社会が崩壊するような、すさまじい混乱が起こるとき、勝ち残るのはまたしてもイノベーターなのだ。その混乱を引き起こしたコンサバティブたちは、皮肉にも、自らの転落を自らの手で歴史に刻み込むことになるだろう。そして進化は、いまだ知られていない方向へ新たな一歩を踏み出すのである。

140214/2014年
クライブ・フィンレイソン,上原直子 訳,近藤 修 解説,2013,そして最後にヒトが残った,The Humans Who Went Exinct;Why Neanderthals Died Out and We Survived,290-292,363pp,白楊社